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コラム欄過去ログ
音楽に限らず、ふっと思うことつづってみました。

 4月は変わり目の月 投稿日:2001年04月01日<日>07時42分 143.90.118.101
一昨日(30日)の深夜、友達が部屋に来てくれた。1日(本日)に遠くに引っ越す とのこと。
早急な出発日に関してはなんせ急な話しでこっちもあわくっちゃったけど急いで MIDI音楽の
制作の仕方とかを教えました。他にもいろいろ協力してあげたつもりです。
MIDIはとりあえずマウス入力でということで教えました。その友人は自分のHPも持ってるぐ
らいだから操作の覚えも速く(僕は機械音痴だけど^^;)2時間もすれば独力で楽器も全く使わず
に伴奏付きの短い素敵な曲まで 創りあげとても喜んでいました。

その後通信カラオケを体験させてあげました。彼は他ではちょいちょい会ってはいましたが僕の 部屋に
来るのは初めてでそのシステムにはたいへん驚いていたようです。(マスターネット通信カラオケ「シングる」) ご関心
ある方は
http://www.masternet.or.jp/singr/dion-wondersquare/index.html

「夏、帰省した時また僕の部屋で会おうね」と午前4時ごろ車で家まで送ってあげたけど、ちょっとさびしくなります。

4月は就職、転勤や移動、入学などの月。僕は別になにも変わらないけど気分だけは心機一転 していろんな
ことに頑張っていこうと思っています。口だけにならないよう^^;気を 引き締めて前進していきます-♪-

 報告、徴兵&「健児(こんでい)の制」 投稿日:2001年03月19日<月>06時45分 143.90.118.70
音楽図鑑に作品33番としてインスト曲「Whatever」をUPしました。 これは作品7番「If You were a boy」のインスト
版でリード楽器はソプラノサックスの 音色を使用。そして2箇所ほど、ギターソロ部分があります。

さて、面子のみで職務を続行、たいへん多くの国民からひんしゅくをかっていると言わざる を得ない、死に体首
相の森総理が防衛大学の卒業式にて「有事法制の検討を鋭意進める」と 言ったとか・・・・(今朝の朝刊より)
法とはどんどん拡大解釈されるもの。将来の徴兵制導入が心配です。
そうなれば多分、政府は体制派芸能人やスポーツ選手などに依頼して愛国心とやらをを鼓舞し「有事立法」 や
徴兵を画策するんだろうなぁ。そんなんで兵士集めてもろくな軍隊にはならないのはミエミエ だけどね^¥^

平安時代の一番最初ごろ「健児の制」といって戦意の欠けるものばかりの集団になっていた庶民 からの徴兵
をやめ、郡司の子弟や富裕者・有位者からの志願(実質は徴兵)によっての兵士採用に切り替えた史実 があ
ります。
今、ひそかに将来の徴兵制導入を狙ってる人たちはこの桓武天皇の英断、「健児の制」を 見習うべきと思う
よ。政治家や外務省のエリート上級官僚、高額所得者、地主など財産持ち、そして富裕な タレント・スポーツマ
ン等など・・・もちろん、言い出しっぺたちの家族が最優先だけどね@@

庶民の徴兵なんかあきらめて全部それらの子弟や孫から徴兵すればって言うのもあながち暴論ではないよう
な気も・・

もちろん、僕はどんな形であれ徴兵制には徹底して反対です。
徴兵制画策者たちに皮肉を込めて上記のようなこと書いたのです。それはわかってね。

五代将軍徳川綱吉はもう一回か二回ぐらい書く予定なりー。 では^^


※2015年8月10日後記 「苦役」と徴兵制

 五代将軍徳川綱吉(その四) 投稿日:2001年03月19日<月>00時28分 143.90.118.7
父家光の鎖国の完成そして息子綱吉の継承により信長の好戦思想をさらに展開した、秀吉がおかした愚かな他国侵略
の発想も消えつつあり平穏な日本の基礎はできつつありました。
関が原の戦いで西軍が勝っていたらその時世での最良の選択「鎖国」は決してありえなかったでありましょう。
むろん、 鎖国には否定的側面はあります。(この文の最後に後述します。)
しかし、その時の状況下での開国・積極的な海外交流を仮定した場合どうでしょうか。残念ながら日本は、
今の南米諸国やインド等みたいに固有の言語や文化や血統すら失っている、もしくはきわめて弱体化したであろう
との説を僕は支持します。
鎖国の理念を定着化させるには国内での既述の鉄砲に代表される狩猟民族色の払拭が当然必要になってきます。
むろん、社会のあらゆる階層に対し平穏な農耕民族色の回帰を綱吉は国民に求めたものと考えます。
たとえ「太平の元禄武士はへなちょこ!」と後世から嘲笑されようとも彼は「太平」の部
分により多くの価値を見出したともいえます。

むろん鎖国及びその継承にはキリシタン弾圧や先進文化吸収の遅れなど負の部分はあります。
弾圧された方々は歴史の犠牲者でありましょう。
ただ、それらを心ならずも捨象した厳格で冷たい歴史のとらえかたから考察した場合、やはり鎖国政策
自体は正解であったものと考えます。


 五代将軍徳川綱吉(その三) 投稿日:2001年03月18日<日>01時57分 143.90.118.95
それまでいっせいを風びした戦乱の新機軸たる鉄砲は父家光が鎖国を完成したおかげで世界史的にも
稀に見る、というか多分例のない「劣等武器(刀・槍)の復権現象」で過去のものとなりました。
これは初期江戸幕府の凄い功労だと思います。飛び道具はどんどん進化します。武器の主役に鉄砲
なるものが永遠に定着すればおそらくは約260年間の平和は続かなかったでありましょう。

そして、鉄砲の持つ暴力性やほとんどない哲学性が庶民生活にまで悪い方向に悪影響を与える
ことを朱子学(儒教)を国是とする幕府首脳が考えなかったはずはありません。
刀剣など伝統武器の場合それぞれ「道」の精神部分が裏付けとして存在し現在でも綿々と伝わって
います。だけど、諸外国を含め「鉄砲道」「銃道」なる形而上学的な哲学って聞いたこ
とありません。
「哲学なき武器、哲学なき武芸は単なる暴力」ととらえたのでありましょう。

父家光以上に学問好きの綱吉が庶民生活の中に「暴力の排除」「儒学に基づいた人道」等の浸透を
求めたのも容易に推察可能だと考えます。「生類憐れみの令」もその意思表示の一つでありましょう。

現在でもアメリカ等に比べると日本は「優しさ」や「弱いものへのいたわり」「共存」「道徳」など善の
概念が一応は尊ばれているとは思うけど、それには先人為政者綱吉の実験的指向錯誤も必ず寄与している
と僕は感覚しています。

次回は父家光「鎖国の完成」と政策継承者綱吉の試みについて書く予定です。むろん、軸は「生類
憐れみの令」であることに変わりはありません。


 五代将軍徳川綱吉(そのニ) 投稿日:2001年03月16日<金>06時27分 143.90.118.79
まだ戦国時代や信長・秀吉の好戦的な気風が元禄期にはまだ相当武士だけじゃなく一般庶民の生活
の間にも残っていました。 そして、前者をとりまく環境では不毛な「殉死」「あだ討ち」がひんぱんに発
生。またそれらの気風が国民も当然のごとく支持していました。 有名な「赤穂浪士」もこの綱吉の時代
に起きた事件だよね。「あだ討ち」は庶民もまた参加もしくは巻き込まれています。 「あだ討ちの堂々巡
り」なんて悲劇だよね。
現代に生きる僕は基本的には死刑は反対ですが、文人政治家綱吉が当初赤穂藩主浅野の殿様に よる
江戸城殿中での吉良氏への乱暴狼藉事件を最大限問題視し公益のため切腹指令及び藩取り潰しに
踏み切ったのも僕は支持します。
学問に造詣深かった綱吉にとって稚拙な刃傷沙汰はネガティブな国風刷新のためにも許せなかったの
でありましょう。
まぁ、「討ち入り」後多くの 江戸庶民や一部旗本等がこれを美談として受け取ったのはしょせん 自分た
ちの程度が上っ面の感情任せだったからだと思います。そして、現代も然りです。今から、世の中が進
歩すれば 「赤穂浪士」への国民の共感は「吉良」「綱吉・柳沢吉保」へのそれに変容するものと考えま
す。

次回は武器の側面からの僕の考えを記す予定です。なお、「生類憐れみの令」はメインとして最後に 書
くつもりです♪


 江戸幕府五代将軍徳川綱吉(その一) 投稿日:2001年03月15日<木>06時49分 143.90.118.69
中学生の時、社会の授業や教科書で江戸幕府5代将軍徳川綱吉について「極端な 動物愛護政策(生 類憐
れみの令)で国民を苦しめたとけっこう面白おかしくおそらくは 脚色されたエピソードを交え習ったよ うな気が
する。
今は文治政治家綱吉の政策をどのように教えているのか知らないけど多分僕が習ったのと 全く同じ扱 いで
あろう。わがままで全くの政治能力のないマザコン将軍で犬公方などなど・・・

しかし、その後の自分なりの素人史観ですが僕は彼を江戸時代の為政者としては高く評価します。 どう も後
付けで誇張の感のある同法令にまつわる物語的各エピソードは彼の政治の批判からスタートした六 代家宣(実
質は新井白石)やそれに続く8代吉宗以降にできあがったものと思いたい。

なぜなら、それらの俗説が綱吉とリアルタイムで文書として流布することは言論弾圧が常識の封建時 代では
ありえないからです。しかも、彼の実の子はまだ幼い時に死んでいて徳川家のいわば綱吉系 は 彼の代で絶
えているはず。いわば傍系の傍系に当たる6代以降(特に紀州系の8代以降)が自らの枝葉の家 系という 負
い目をうめるために5代綱吉のイメージを悪くさせようと人為を加えたり大幅に誇張された風刺 を黙認したりす
るのは何ら不思議ではない からです。なんせ家系がものをいう時代だから・・・

そういえば、綱吉の父3代家光ヘの負のイメージ(辻斬り、性的指向等に関連する様々な逸話・痴情話な ど)も
息子綱吉同様相当残っていますが、傍系将軍たちにとっても始祖である初代家康へは美化・神 格化話こそた
くさんあるけど、揶揄めいたものは現代には伝わってはいないと思います。つまり、 後の将軍たちは家光や 綱
吉への風刺事項は積極的に誇張・捏造・黙認はしたけどそれらを家康に当ては めることは許さなかったと考
えます。綱吉政治への意図や作為がなく上記「生類憐れみの令」にまつわる 数々の風刺物語が真実を基盤
としているのなら当然、家康ヘのネガティヴな逸話も多く残っているでしょうに・・・・
なお、正統家系将軍3代家光ヘの後の将軍陣営側からのいわばあてつけに付いては「正当家系でも失政や変人
はいた」というイメージの 刷り込みが目的と考えます。

さて僕が綱吉をなぜ評価するかという本論は次回以降に書きましょう。


 兄弟猫 投稿日:2001年03月14日<水>07時55分 143.90.118.134
最近、昨年末事故死した愛猫の兄弟猫2匹がよく僕んちに遊びにきてくれるようになりました。 とはいってもえ
さが目当てのようですけど^^;
全部で3匹一緒に捨てられていたのですが拾われた近所の方は以前から別の猫二匹をお家で
飼っていらっしゃっていたので、それら兄弟猫二匹はその方が外猫として飼っていらっしゃいます。
生前中も彼等は時々遊びに来て外から気のせいか彼をうらやましそうにながめていたものです。むろん、時々え
さは与えていました。 だけど、彼はさすがに怒ったりえさを食べる邪魔などはしなかったけど、なんか不満げ
な表情でしたよ。そこがまた可愛かったのだけど・・・・
今となっては印象深い想い出になってしまったけどね・・・・・
彼の死後なぜか僕の家には最近まで寄り付きませんでした。亡くなったことはすぐに知覚していたんだろう
ね。やっぱり兄弟だから・・
事故死後にその近所のおばさんと彼が亡くなってた現場で焼香してる時に兄弟猫二匹とも呼ばないのに自
発的にやって来てくれたことは感動的でもありました。

さて兄弟猫のうち一匹は縞模様のフジ猫(どら猫?^^)もう一匹は白地に黄土色(縞ではありません)。後者は
大食いで前者のほうが多分お兄さんなのか、弟が 食べ終わるまで必ずそばでおとなしく待っています。
すばしっこて狩りの得意だった僕の猫は無芸大食のほうの後者ヘは結構優越感を態度でそれとなく示していたよう
だけど前者はだいすきで一目もニ目もおいていたようです。じゃれあうときも前者にはなんか敬意を持って
じゃれあっていたみたい。

もちろん両方とも故愛猫の血縁であるからには家に来たら彼だと思いこんで二匹とも平等に可愛がりえさをやり
つづけようと思っています。

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